東京十社の誕生

 慶応3年(1867) 10月、将軍徳川慶喜(よしのぶ)は大政奉還(たいせいほうかん)により徳川幕府300年の江戸時代に終止符が打たれました。これを受けて明治天皇は同年12月、王政の復古(ふっこ)を宣言し、江戸を東京と改め、慶応4年9月「明治」と改元され同年10月江戸城を皇居と定められ、ここに新しい首都、東京が始まったのです。

 その眼まぐるしき変革の中に、明治天皇は、東京の鎮護(ちんご)と万民の平安を祈願され、明治元年11月8日、准勅祭神社(じゅんちょくさいじんじゃ)として東京十社を定め勅使(ちょくし)をして御幣帛(ごへいはく)を捧げ、ご祈願しました。

勅祭とは天皇の特使である勅使が派遣されるお祭りで、これに准ずる東京十社は大変に格式のある神社といえます。 以来百有余年、いまや東京は、日本の首都として政治、経済、文化の中心となり、大変な発展を遂げました。


この時期忘れてはならないのが、明治維新の「神仏分離令」です。神仏分離(しんぶつぶんり)は、神仏習合(しんぶつしゅうごう)の慣習を禁止し、神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別させることです。

その動きは早くは中世から見られますが、一般には江戸時代中期後期以後の儒教や国学や復古神道に伴うものを指し、狭義には明治新政府により出された神仏分離令に基づき全国的に公的に行われたものを指します。

(神仏分離令:正式には神仏判然令。慶応4年3月13日(1868年4月5日)から明治元年10月18日(1868年12月1日)までに出された太政官布告、神祇官事務局達、太政官達など一連の通達の総称)

神仏分離令は仏教排斥を意図したものではなかったのですが、これをきっかけに全国各地で廃仏毀釈運動(はいぶつきしゃくうんどう)がおこり、各地の寺院や仏具の破壊が行なわれました。檀家制度のもとで、寺院に搾取されていたと感じる民衆がこれに加わったのです。

政府は神道国教化の下準備として神仏分離政策を行ないましたが、明治5年3月14日(1872年4月21日)の神祇省廃止・教部省設置で頓挫し、神仏共同布教体制となりました。

廃仏毀釈運動は明治以降、第二次世界大戦の敗戦まで一部の過激な神道家とこれに追随した一部民衆が行ったものの、一部地域を除き、民衆には普及しませんでした。現代でも神社と寺院の違いが判らない方も多いと思いますが、中には神仏習合の風習を受け継いだり復興させたりするところもありますが、神道、仏教のそれぞれの内部では、お互いに忌避(きひ)するむきもあるのです。

根津権現、神田明神など庶民に親しまれている名称も、すべてこの時期に正式には「神社」に統一されました。

 

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