王子神社(王子権現)

王子神社の由来

ここ王子神社は、元亨(げんこう)2年(1323年)、当時の領主・豊島氏が紀州の熊野権現を勧請(かんじょう)し「若一王子宮」(にゃくいちおうじ)を奉斉しました。このことから「王子」の名称は由来しています。


20080111_ouji01.jpg 東京十社 王子神社

後に徳川家康公は社領200石を寄進し将軍家祈願所と定め、歴代の将軍の表敬が厚く、三代家光公は寛永十一年、社殿を造営し、また林羅山(はやしらざん)に命じて当社縁起「若一王子縁起絵巻」を作らせています。

また、八代吉宗公は紀州出身で、紀州熊野権現の勧請である当社を崇敬し、元文(げんぶん)二年(1738年)に飛鳥山を寄進しました。 曾て社殿は森深く昼なお暗い幽寂地であり、「太田道灌雨宿の椎」をはじめ、勝海舟(かつかいしゅう)の練胆話(れんたんばなし)も伝えられています。
桜を多く植えて、庶民遊楽地とし、王子権現の名と飛鳥山の花見は、江戸名所として知られています。 



名主の滝公園

20080111東京十社024a.JPG 名主の滝公園名主の滝(なぬしのたき)は、江戸時代の安政年間(1854~1860)に王子村の名主「畑野孫八」が、その屋敷内に滝を開き、茶を栽培して、 一般に人々が利用できる避暑のための施設としたことにはじまるもので、 名称の「名主」はそこに由来しています。

この時期はさだかでは ありませんが、嘉永3年(1850)の安藤広重による 「絵本江戸土産」に描かれた「女滝男滝」が名主の滝に あたると思われますので、それ以前のことと考えられます。



「髪の祖神」関神社

王子神社境内の左側に、関神社の「毛塚」があります。 理容、美容業、かつら屋さんなどが髪の供養と恩返しから、昭和36年に建てたものですが、髪に悩む方も大勢お詣りされるようです。

この塚の建つ神社が「髪の祖神」として、蝉丸を祀っています。蝉丸といえば、百人一首のこの句でおなじみの「これやこの行くも帰るもわかれては 知るも知らぬも逢坂の関」を思い出されるでしょう。

20080111tokyo_jussha007keduka.JPG 関神社内の毛塚

 「蝉丸公」は延喜帝の第四皇子にして和歌が巧みなうえ、琵琶の名手であります。 髪の毛が逆髪である故に嘆き悲しむ姉君のために侍女の「古屋美女」に命じて「かもじ・かつら」を考案し、髪を整える工夫をしたことから「音曲諸芸道の神」並に「髪の祖神」と博く崇敬を集め「関蝉丸神社」として、ゆかりの地 滋賀県大津の逢坂山に祀られており、その御神徳を敬仰する人達が「かもじ業者」を中心として江戸時代 ここ「王子神社」境内に奉斎したのが、当「関神社」の創始なのです。

 昭和二十年四月十三日戦災により社殿焼失しましたが、人毛業界これを惜しみて全国各地の「かもじ・かつら・床山・舞踊・演劇・芸能・美容師」の各界に呼び掛け浄財を募り昭和三十四月五月二十四日に再建しました。