学問の神・菅原道真公

 菅原氏は、古代豪族の土師(はじ)氏の出身で、道真公の曾祖父古人公が、土師を菅原と改姓するとともに、文道をもって朝廷に仕える家柄となったのです。
時代は、嵯峨天皇(さがてんのう)の時代を頂点として、「文章経国」すなわち学問を盛んにして国をつくるという方針のもと、唐風の文化の最盛期を迎えていました。

 道真公は清公(きよきみ)公、是善(これよし)公と続く文章博士(もんじょうはかせ)の家系に生まれました。母は、少納言伴(大伴)氏の出身です。

20080118tokyo_jussha012kaido_tenjin.jpg 東京十社 亀戸天神社 5歳の藤原道真公

写真にありますように、わずか5歳で和歌を詠み、周りを驚かせました。
「美しや 紅の色なる 梅の花 あこが顔にも つけたくぞある」
和歌にある「あこ」とは自分のことで、菅公は幼名を阿呼(あこ)といわれてました。

10歳を過ぎて漢詩を創作し、神童と称されました。18歳で文章生、23歳で文章得業生、26歳でついに方略式に合格し、30歳の頃、島田宣来子を妻に迎え、33歳で式部少輔、文章博士となり、学者としては最高の栄進を続けました。

42歳の時には、讃岐守という四国の地方官へまわされましたが、そこで、むしろ慈父のごとき善政を行い住民に慕われたのです。
後に京へ戻ると宇多天皇の厚い信任を受け、蔵人頭などの政治の中心で活躍しました。50歳の時には、唐の国情不安と文化の衰退を理由に遣唐使停止を建議し、中国に渡ることはありませんでした。
そして、55歳で右大臣、そして、ついに、延喜元年1月7日、藤原時平とともに従二位に叙せられましたが、その直後、藤原時平の政略に遭い、急転して大宰府に左遷となりました。

紅梅殿の梅に別れを告げ、2人の幼いお子様と門弟の味酒安行だけを伴って大宰府へと下られました。大宰府についてまもなく、お子様の隈磨呂は旅に疲れで亡くなりました。

 大宰府では、左遷というより配流に近い窮迫の日々を送りながらも、天を怨まず国家の安泰と天皇さまの御平安をお祈りし、ひたすら謹慎され、配所から一歩も出ることはなかったようです。
劣悪の環境のなかで健康を損ない、道真公を京で待っているはずの夫人の死去の知らせが届くと、ますます病は重くなり、延喜3年(903)2月25日、59歳の春、都に帰れないまま、白梅の花びらが散るように亡くなったのです。

 御遺骸は、門弟の味酒安行によって、大宰府の東北の地に埋葬され、太宰府天満宮が創建されました。その後、朝廷でも罪なきことが判明し、人から神の御位に昇り、天満天神、学問の神・文化の神として現代に至るまで永く人々の信仰を集めています。

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